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このブログは永六輔こそ今いちばん面白いタレントだという認識の下、ただひたすら永六輔についてのみ書き綴る特殊ブログです。
このブログの記事はTBSラジオで土曜午前8:30から放送されているラジオ番組「土曜ワイド永六輔その新世界」の感想文と膨大に存在する永六輔の著作の書評によって主に構成されます。 なお、文中で「先生」という代名詞がインフレを起こしていますが、これはもちろん、永六輔先生を指しています。 カテゴリ
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2005年 05月 29日
本書は、我が書陵部でこれまでも何度か言及している「人の褌で相撲を取る永六輔の褌で相撲を取る男」矢崎泰久の青島批判本である。
この書物自体は、簡単に言ってしまえば矢崎の青島憎しの感情が前面に噴き出した告発本で、そこでの青島批判は、 ──選挙公報であるにもかかわらず明らか」が「明か」に、「シミュレーション」が「シュミレーション」と記すなど、青島の杜撰な一面はこんなところにも散見される」(本書14頁) といった難癖のような話を含むもので、永六輔思想の紹介・頒布という当ブログの本来の目的に照らせば特に顧みる必要のないものである。にもかかわらず今回敢えて取り上げる所以は、本書には、永先生が自身の著書でなかなか触れることのない1983(昭和58)年の参院選出馬の経緯とそこでのエピソードが記されているからである。以下この点を紹介していきたい。 1983(昭和58)年、参議院選挙を前にして公職選挙法が改定され比例代表制の導入により無所属議員が当選しにくくなると、当時無所属議員だった青島幸男、喜屋武真栄、秦豊、美濃部亮吉、山田耕三郎、八代英太、横山ノック、中山千夏の八人は「無党派市民連合」というグループを作り大同団結して選挙に臨むことをはかった。 しかし比例代表での選挙となると、名簿順位が当落を左右するので、誰を名簿の上位に載せるか、その順位をどう決めるかが問題になる。改選期を迎えていた八代やノックは自分たちは現職だから優先されるべきだと思い、「無党派市民連合」を支持する市民グループの連合である「参院を取り戻す会」は、「民主的なルール」でこれを決めるべきだと主張し、予備選挙を行って我らが永先生、紀平悌子、そして矢崎泰久(ちなみにこの時矢崎は中山千夏の第一秘書をし ていた)の三人を選び、「無党派市民連合」の候補者としようとしていた。ともあれこのように名簿順位の決定が難航している中、矢崎は青島に呼び出される。(以下、引用97~98頁) ──参議院会館内の青島の部屋へ行くと、沈痛な面持ちで彼は語り始めた。 「頼みがある。キミは今回の名簿から下りてくれないだろうか。俺が承諾を得ている人物が、あんたが立候補するなら辞退すると言っているんだ。だから、ここはひとつ、俺の顔を立てて くれるといいんだがね」と言う。 「出る出ないは勝手に決められないよ。民主的にやらなければ、誰も納得しない」 と、私は突っぱねた。 「だから頼んでいるのよ。一言、立候補したくないって、言ってくれよ」 と青島も譲らない。 「無理だよ。一存では決められない。それに僕が立候補するなら出てもいいと言う人だっているんだもの」 と私がなおも言い募ると、 「だからさ、あんたが一抜けたって言えば、ここは丸く収まるのよ。な、次回はあんたをトップにしてもいいから、今回だけは俺の意見を黙ってきいてくれないか」 青島は強硬だった。ここで、イエスというのは簡単だが、仲間を裏切ることになる。それにこんなふうに密室で決めるようなことはやりたくなかった。だいいち、次の選挙の名簿の一位にするなどというずっと先の話を今ここでするなんて、いくら何でも乱暴過ぎるし、それこそ専横だった。 「だから、みんなで協議して決めることになら、僕だって従うよ。僕が出たら嫌だって言ってる人は誰なの、それって変じゃないかな。その人と話し合うよ。誰なの?」 と、私は穏やかに尋ねてみた。 「それは今は言えない。そうか、駄目か。しゃーないな。分裂はしたくないんだけど、とにかく考えてみてくれないか。ちょっとヤバいことになるかもしれないぜ。」 青島は不気味な捨て台詞のような言葉を呟きながら、ソファにあった犬のぬいぐるみを抱き寄せて、いかにもバツが悪そうにしていた・・・。 犬のぬいぐるみの件を含めてこのやり取り自体は矢崎側の大本営発表であるにもかかわらず、そこでの彼の野心というか思惑は非常に分かりやすい。 ともあれこの後、矢崎と中山千夏の関係が怪しい、などとフォーカスが書き立てたりして、「無党派市民連合」の議員の間では「矢崎下ろし」が行なわれた。しかしそれでも矢崎が「自分からは絶対下りない」と粘った結果、ノックは離脱、青島は「二院クラブ」で独自に名簿を作ると言い出し、あの野坂昭如やいずみたくらを擁立、これに衝撃をうけた八代も離脱、紀平も立候補辞退し、「無党派市民連合」はボロボロになるが、矢崎は「私たちは何も間違いを犯していない。だから、立候補を決意している永六輔を毅然として名簿一位にしたまま、断乎戦うしかない」と永先生一位、自分二位の名簿で選挙に突入した。 出馬にあたり記者のインタビューに対して、「矢崎さんを国会に入れるために、ボクは立候補します」と答えたという永先生の言動は、私学校党の若者のために決起を決めた歳の西郷さんを彷彿とさせるものがあり、我々永六輔主義者の胸を打つものがある。 しかしこの発言は逆に「名簿一位の永六輔は当選してもすぐ辞めて、中山の愛人ともっぱら の噂の高い二位の矢崎を国会に送り込むつもりではないのか」などの憶測を生み、「無党派市民連合」はさらにイメージダウン、そして結局選挙は惨敗、永先生も矢崎も落選、という結果を迎えたのであった。 以上が永先生参院選立候補の経緯である。 それにして、も。この経緯や、近年の永先生と矢崎の関係を見るにつけ、永先生と矢崎の関係はそれこそ走れメロスばりの友情で結ばれているのか、はたまた永先生は矢崎に余程重大な尻尾を捉まれているのか、いろいろと揣摩臆測をしたくなるが、それは下衆の勘繰りというものかもしれない。まあともかく矢崎のおかげでひどい目にあった永先生であるが、最後にこの選挙戦にまつわる一服の清涼剤ともいうべきエピソードを一つ紹介したい。 先にも少し触れたように、1983年の選挙には二院クラブから野坂が出馬した。いわば永先生と野坂がそれぞれ無党派の票を奪い合う敵として相まみえることとなったのである。その際の二人のやり取りについて、野坂は次のように語っている。(103~104頁) 「新宿の街頭で選挙運動をやっていた永さんに僕は胡蝶蘭を送った。彼は僕に作務衣をくれた」 英雄、英雄を知る、敵に塩ならぬ作務衣を送る美談である。 矢崎泰久『変節の人 かつての同志が告発する青島幸男の正体』(飛鳥新社 1997年)
by h_motoda
| 2005-05-29 03:31
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